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2024年7月28日礼拝説教

2024年7月28日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書6章33節~7章6節 「さばかないことの勧め」

 

1. 神の国

神の国とはどのようなものでしょうか。神の国とは、神が完全に支配されるところと説明されます。聖書全体を通して見えてくる「神の国」とは一体何でしょうか。その出発点にあるのは旧約聖書、創世記です。人は神のかたちとしてつくられました。神の支配とその命令に自由な意思をもって従うように求められました。しかし、人はそれを守れず、罪を犯し、神の祝福から外れてしまうのです。人は本来の目的を失い、さまよっています。最も深刻な影響は神との関係に表れます。私たちは神の支配ではなく、偶像の神の奴隷となってしまったのです。主イエスの言葉は闇から抜け出し、私たちが戻るべき場所へと戻らせる力を持っています。

 

2. さばかないという命令

イエスは「明日の心配はしなくてよい」と教えられました。なぜ私たちは安心できるのでしょうか。それは神との関係が正しいものとされているからです。その根拠は、私たちの側ではなく主イエスにあります。それゆえに、イエスは安心しなさいと言われるのです。神の国とその義を求めるように語ったすぐ後、次のようにイエスは命じています。「さばいてはいけません。」私たちは、どこかで人をさばいてしまいます。自分を神の位置に置き、人をさばくのです。「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」このキリストのたとえは辛辣です。人を建てあげる言葉を私たちは口にしているでしょうか。イエスは私たちに、まず自分の目から梁を取り除くように教えます。

 

3. 赦されたものとして

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」聖なるもの、真珠とは何でしょうか。また犬、そして豚とは何でしょうか。私たちに信仰が与えられたのは、正しさを振りかざし、神を知らない人々を裁くためではありません。私たちもかつては神を知らない異邦人でした。しかし、神の憐みのゆえに、神の聖さという宝をいただけたのです。私たちは人をさばくために、罪赦され、神の基準を知るに至ったのではありません。むしろ、人に仕えるために罪赦され、神の民とされたことを忘れてはなりません。「さばいてはならない。」という命令はシンプルですが、とても難しいものです。絶えずキリストの十字架を見上げ、自らが赦されたことを知り続ける必要があるのです。

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