2022年11月20日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙3章1節~6節 「イエスのことを考える」
1. 使徒である方
使徒であるイエスというのは、あまり聞きなれないかもしれません。「使徒」という言葉は、遣わされた者、また大使という意味の言葉です。イエスは父なる神が直接遣わされた者という意味です(Ⅰヨハネ4:9)。この方のことを考えなさいと呼びかけられています。「考える」という言葉は熟考する、気づく、観察するという意味です。ただ漠然と思うのではなく、イエスのことを深く考え、気づくように勧めています。
2. モーセとイエス
ここでイエスを深く考えるにあたって、著者はモーセと比較しています。この時代では、モーセの影響力の方がイエスに比べて大きいものでもあったからです。5、6節を見ると、モーセは「しもべ」、キリストは「御子」として、比較されていることが分かります。モーセは神の家全体の中で忠実であり、それと同様にイエスは父なる神に対して忠実でした。モーセは神の家に対してしもべとして仕え、イエスは父の子として忠実に歩まれたのです。モーセとイエスは横に並ぶ存在ではありません。けれども対立する存在でもないのです。モーセはキリストを指し示す存在であったとも言えるでしょう(申命記18:15)。モーセは、神の家のしもべとして忠実に歩みましたが、それ以上の存在として御子イエスは歩まれたのです。
3. 確信と希望による誇りを持って
今や私たち「教会」こそが、神の家であると言われています。神殿などの建造物ではなく、キリストを信じる者たちこそが神の家なのです。イエスによって神の家は治められ、そして導かれていきます。だからこそ、私たちはイエスのことを考えるのです。私たち信仰者の生き方は、主イエスに模範があります。それは神の恵みに生きた姿でもあったからです。私たちは主イエスにある「確信と、希望による誇り」を持って歩ませていただきたいと思います。それは自分こそが正しい人であるという誇りではありません。それはただ十字架によって、神の子とされていることへの誇りです。それは神ご自身を誇ることでもあるのです。
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