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2025年2月23日礼拝説教

2025年2月23日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書12章9節~21節「折らず、消さず」

 

1. パリサイ人とイエスの教え

イエスはパリサイ人たちの大きな反感を買いました。その理由の一つは、彼らが信じる「正しさ」を非難されたからです。ここでは「安息日にいやしを行う」ことが問題視されています。「いやしをすること」自体は良いことです。誰も異論はないはずです。しかし、パリサイ人たちは「それをいつ、どのように行うか」に異を唱えました。「それは安息日にしてはならない『労働』ではないか。」とイエスを非難したのです。しかし、イエスはそれを退けられました。イエスの言葉は当たり前のことのように思えます。しかし、私たちもパリサイ人たちと同じように、「正しさ」を優先し、「愛」を失ってしまうことがあります。

 

2. 良いこととは何か?

「安息日に良いことをする」。これはシンプルな表現ですが、「何が良いことか」を定義することは現代では難しくなっています。なぜなら、「良いことは人それぞれ違う」という考えが広まっているからです。パリサイ人たちは、律法を守ること、自分たちの定めた掟を守ることを「最も良いこと」としました。そのため、たとえ「いやし」は良いことであっても、安息日に行ってはならないとしました。しかし、イエスはその考えを覆しました。「弱さの中にいる人に手を差し伸べること」「痛み、苦しみを覚える人を救うこと」こそが、律法を守ること以上に「良いこと」であると示されたのです。

 

3. イエスと私たち

イエスは、なおも癒しの業を行われました。ここで、マタイはイザヤ書(42:1)を引用します。イエスは神の子でありながら、「しもべ」として歩まれました。力によらず、自己顕示をせず、ただ「しもべ」として神の憐みの業に励まれたのです。「傷んだ葦を折らず、くすぶる灯芯を消さない」とあるように、打ちひしがれ、絶望し、不安や恐れに満たされた者を、決して見捨てることはありません。私たちはこのイエスの姿に教会の姿を見いだします。教会はキリストのからだであり、互いに手を置き、祈り、癒しと慰めと励ましを分かち合う場です。私たちは「傷んだ葦」「くすぶる灯芯」です。しかし、イエスはその小さなともしびを決して消されないのです。

 

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