2025年2月9日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書11章25節~30節「イエスの招き」
1. 天地の主である父
イエスは「父よ」と祈り始め、神を賛美します。神は世界の創造主であり、すべてを支配する方です。そのため、人々はときに恐れ、時には疑いを抱くこともあります。人々を苦しめた飢饉や戦争、貧困や病、差別や搾取——そうした現実は、現代に生きる私たちにとっても変わらぬものです。イスラエルの人々は、真の神を知り、そのみこころに従って歩むよう導かれてきました。彼らは神に信頼し、律法を大切に守りながら生きていました。しかし、それでも神は恐るべき存在でした。律法を守ることで祝福を得られると信じていた彼らの中でも、特にパリサイ人や律法学者たちは、神の前の正しさを追求する者たちでした。けれども、いつの間にか彼らの信仰は、神ではなく「人の前での正しさ」にすり替わってしまっていたのです。
2. 幼子たち
そこに現れた方が、イエス・キリストです。イエスは、ご自身と神との関係が「父と子」であることを明らかにし、私たちをその関係へと招き入れようとされました。すべてのことは、父なる神から子なるイエスに渡されています。そして、イエスが示そうとする人以外には、父なる神を深く知ることはできません。それでは、イエスは誰に父なる神のことを現わそうとされたのでしょうか。それは「幼子たち」だと言われました。では、「幼子」とはどのような人のことでしょうか。それは、「心貧しく」「悲しみ」「へりくだり」「義を求め」「あわれみ深く」「神の前に素直で」「平和をつくる」そのような者たちのことです。
3. イエスのくびき
イエスは私たちを、ご自身のもとへと招いておられます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人」は、真の神の姿を知らず、不安や恐れに縛られながら、「正しい」とされることに従い続けている人々のことです。そして、それは私たちの姿でもあります。私たちは誰しも、「生きる」という重荷を負っています。イエスは、そんな私たちを招いておられます。イエスのもとで、私たちは十分に休まなければなりません。しかし、それだけでは終わりません。イエスは、私たちが再び立ち上がり、前へと進むよう導かれます。ただし、以前と同じ歩み方ではありません。イエスがくださる「くびき」を負い、新しい生き方へと導かれていくのです。
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