2025年3月30日礼拝説教
- mbchurch
- 3月30日
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2025年3月30日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書12章43節~50節「神の家族とされる」
1. 汚れた霊のたとえ
イエスは汚れた霊のたとえを語られました。汚れた霊が人から追い出され、安住の地を探しますが、見つからず、元の場所に戻ると、そこはきれいに整えられていました。そのため、さらに悪い七つの霊を連れてきて住み着き、結果として、その人の状態は以前よりも悪くなってしまいます。このたとえは、旧約聖書におけるイスラエルの堕落のパターンと重なります。イスラエルの民は偶像礼拝に陥り、苦難を通して悔い改めて神に立ち返りますが、再び元の状態に戻ってしまいました。このような危うさは、私たちの姿でもあるのです。
2. イエスの家族とは誰か?
イエスが語っている最中、母と兄弟たちが訪れました。しかし、イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟たちとはだれか」と問い、弟子たちを指して「わたしの母、わたしの兄弟たちです」と言われました。そして、「天の父のみこころを行う者こそ、わたしの家族である」と語られました。これは、イエスの弟子たちが単なるイエスのフォロワーではなく、神の家族として新たな関係を持つことを示しています。悪しき霊が戻る人とは対照的に、神に立ち返る者は癒しと回復の道を歩んでいくのです。
3. 神の家族としての歩み
イエスの弟子となり、神の家族として歩むことが、悪しき時代を乗り越える鍵です。信仰の歩みは単なる律法の遵守ではなく、神との関係を深めることにあります。神はもはや恐れるべき存在ではなく、私たちを愛し、赦し、受け入れてくださる父なる神です。Ⅰコリント6章19節~20節では、私たちの体が聖霊の宮であると語られ、エペソ2章19節~22節では、神の家族として共に築き上げられることが述べられています。教会は建物ではなく、私たち一人ひとりが「聖なる宮」として結ばれ生きる共同体です。その歩みこそが、やがて訪れる神の国の基盤となるのです。私たちは、新たな年度に向けて、神の家族としての歩みを続けていきましょう。
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